2024年、上京して丁度10年の節目を迎えた。
ナニモノかになるために上京した。
音楽でナニモノかになれた。
でも、そんな特別な時は長く続かなかった。
今や飲食店に勤務している期間の方が長くなってしまった。
2023年、コロナに罹って何もかもが嫌になり、このブログも記事を全て綺麗さっぱり消して、最初からなかったかのように開かなくなった。
『いつかまた書く日が来るかも知れない』
そう思って、またいつものように何もない日々を送ってしまっていることに気づいた。
『大阪帰ってこんの?』
色んな友人にそう言われる。
その最適解は今も見つかっていない。
僕はまだ、東京で足掻いていたい。
もう一度、ナニモノかになりたい。
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思い返せば幼稚園児の頃はラピートの運転手になりたかった。
小学生の頃はMAX渡辺、川口名人と肩を並べるプロモデラーになると信じていた。
中学生になった頃、両親の離婚が決まって、人生で1番暗い時代が訪れた。
不良にも優等生にもなりきれない、家出を繰り返す割に塾にはちゃんと通い続ける、そこそこ勉強が出来るバカになっていった。
そんな中、深夜のTVを通じてプロレスと出会った。
その頃の新日本は"猪木問答"があった頃。
後に暗黒時代と揶揄されるような時代だった。
でも、僕の目に映る選手たちは輝いていた。
当時のTVは新日本プロレスとNOAHが観れた。
たまに特番で大阪プロレスがやっていた。
闘龍門にT2Pが逆輸入されたところで興味が湧き、衛生テレビを契約している友達に月500円と新品のVHSを渡し、GAORAを録画してもらい、闘龍門に触れることができた。
『もし高校受験に失敗したらメキシコ行ってプロレスラーになる!』
そんなことを周囲に言っていた。
しかしそこそこ勉強が出来るバカは私学専願で高校進学をする。
そんな中、知り合いから二輪車の楽しさを教えてもらい、高校にあがってすぐに中型免許を取得した。
どこにでも連れて行ってくれるバイクに夢中になった。
夢はガレージでバイク屋をするおじさんへと変化していた。
そうこうしているうちに進路を決める時期になった。
家庭環境を鑑みて就職を決めた。
しかしこのタイミングで音楽と出会ってしまった。
バイト先の先輩に連れて行ってもらった関西の小箱。
ぎゅうぎゅう詰めのフロア。
ステージから爆音を鳴らす青春パンクバンド達。
モッシュの波に攫われて、前方に投げ出された僕の眼前に広がった景色は全てを吐き出すかのようなエネルギーの塊だった。
プレイヤー側になるなんて思いもしなかった。
その楽しさにどっぷり浸かってしまった。
仕事をしながら音楽を続けるのは難しいと感じ、大学進学を決めた。
大学では音楽サークルに属し、音楽に熱中していた。
単位を気にせず、夜行バスで東京に行っては沢山ライブをした。
あんなに母親を怒らせたのはいつぶりだったろうか。
僕は大学を辞めた。
インディーズデビューもした。
上京もした。
ラジオとテレビにも少し出た。
全国をツアーで回って、色んなフェスにも出させてもらった。
当時お客さんからは恵まれた環境で音楽をやっているように思われていたと感じる。
しかし現実は甘くはなかった。
スケジュールが詰まると生活が困窮した。
音楽で飯を食うことは出来ていなかった。
表向きは明るく振る舞って、飲み会にも積極的に行って、外交的な自分を演じることに必死だった。
そのまま流れるように心身は壊れていった。
結果として音楽から離れた。
1番楽しくて、1番輝いて、
それでいて1番辛い一世だった。
そうして何も職歴がない男になった。
傍には膨れ上がった借金が転がっていた。
目の前から色彩が消えた気持ちだった。
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派遣社員とアルバイト。
日々を借金の返済に消費した。
途中、諦めそうになりながらも何とか生きていた。
年を重ねる毎に借金の額は萎み、ある程度の休みと余裕を得た2018年。
心が求めたものはプロレス観戦だった。
聖地へと赴き、目の前に広がるレスラー達の輝きにもう一度人生頑張ってみようと思えた。
やってみたかったことを片っ端からやっていった。
そんな中でレザークラフト、カメラ、プロレスを身体は安定して求めていることに気がついた。
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"革とカメラとプロレスと"
これが今の僕になった。